多くの人が知っている台湾は沖縄から南西に少し下ったところに位置するあの島だろう。
パッと頭に思い浮かぶはずです。
だが、多くの日本人が知らない台湾が実は本島から西の中国大陸にへばりつくように存在している金門島にあるのだ。
金門島と聞いて、すぐにそこが台湾であると認識できる人は本当に少ないのだが、今日の台湾があるのもこの金門島のおかげだと言える。
それこそが、金門戦争。
第二次世界大戦の後に起こった、中国大陸の毛沢東と蒋介石の戦いである国共内戦の決着の舞台です。
歴史を変えた金門島での史実は多くの人に知られていない。
この戦争には知られざる日本人にまつわる事実が隠されているのです。
今回はこの金門島について書いてみよう。
中国本土からわずか2km沖に浮かぶ金門島
地図を見ると、まさかここが台湾!?と思ってしまうに違いない。
中国大陸の福建省から僅か2km沖合に浮かぶ島が金門島です。
台湾本島からは実に180kmも離れている。
ここは、日本統治下でも領土化されることも、日本語教育を受けることもなかったため、台湾本土のように日本語を話せる方はほとんどいない。
この島が台湾であるのは、ここが中国の国共内戦の最前線であったことに由来し、歴史的背景によって1992年までは、外国人はもちろん台湾本島の人でさえも自由に立ち入ることさえ許されることがなかった島なのです。
激戦の爪痕は今でも各地に残っている。
軍事要塞、銃弾の跡、地雷が埋まっているエリア、海外線に並ぶ敵兵を阻む防御線など。
現在では、観光地化と共に観光客は増えているようですので、興味のある方はTripAdvisor (トリップアドバイザー)で「金門島」と検索してみてください。
戦神と呼ばれた日本人「根本博」の存在
金門島における金門戦争に関わる日本人として、長年情報を隠ぺいされ続けてきたのが元陸軍中将である根本博だ。
第二次世界大戦の終戦当時、彼は中国の内モンゴル(現在の中国北部)に駐屯していました。
終戦では天皇陛下の玉音放送が有名ですよね。
これは、戦争の終わり、武装解除を日本国民に伝えるものでした。
日本から遠く離れた、中国内地にいた根本もこの玉音放送を聞いていました。
だが、終戦後も北部のソビエト連邦(現在のロシア)からの侵攻が止むことは無く、武装解除をしてしまっては、内地に在留する日本人4万人の命が危ういと判断した根本は武装を続けました。
軍人として日本人の命と財産を守るために下した判断です。
この結果、4万人の日本人が後に無事に帰還することができました。
一方で内モンゴルの東部に位置する満州では、武装解除によって多くの日本人がシベリアに抑留されてしまうという対極の境遇に晒されています。
当時、戦勝国である台湾の総統であった蒋介石は日本人の帰還を速やかに進めており、これには根本は深く恩義を感じていました。
根本と蒋介石の面会
終戦後、1945年12月に根本は蒋介石と中国の北京で面会しています。
蒋介石は日本への留学経験もあり、今後は日本と協力していかなければならないと考えていたようです。
そのため、中国大陸に在留している日本人と日本兵の速やかなる帰還に協力してくれたのでしょう。
それは、自国である台湾(中華民国)の隊員たちよりも優先して鉄道などの輸送を割り当ててくれたことにも見ることができます。
この蒋介石の考えと行動に、根本は何かしらの恩返しを日本人としてしなければならないと感じていたそうだ。
二人の出会いは後の金門戦争に大きな影響を残すことになります。
中国大陸の内戦と台湾(中華民国)
第二次世界大戦後、中国大陸では毛沢東率いる共産党と蔣介石率いる国民革命軍の衝突が起こりました。
これが中国の内戦であり、台湾(中華民国)の始まりでもあります。
当初、蒋介石の勢いは強かったのですが、ソビエトの援護を受けた共産党は徐々に蒋介石を攻め上げていくことになり、1949年(昭和24年)にはついに蒋介石は敗北が決定的となり、現在の台湾へと追いやられます。
この様子を食い入るように見つめていたのが根本博だ。
蒋介石に深い恩義を感じていた彼は、居ても立っても居られず、私財を売ってでも台湾に渡航することを決断します。
彼は、軍人としての仕事の話を家族にすることは一切なかったといいます。
台湾への渡航に関しても、家族には伝えなかったようです。
渡航当日の朝は「釣りに行く」という言葉を残しただけでした。
やがて、中国の内戦である国共内戦の決着の舞台となる金門島での戦争に深く関わることになるのです。
密航、そして投獄から台北へ
終戦後、日本はアメリカ軍(GHQ)の占領により日本人の海外渡航は一切禁じられていました。
その最中、根本は通訳の吉村是二と共に蒋介石のためにと台湾へ密航したのです。
彼らの密航は二人だけの力では到底実現できることではなく、それを陰で密かに支援したのが第二次世界大戦当時に台湾で総督を務めていた明石元二郎の息子である明石元長でした。
父、明石元二郎の墓は今も台湾にあります。
明石元長は根本らの密航計画のための資金調達、出向場所の選定など、闇に奔走したという。
父が台湾の総督であった所縁もあって、当時、共産党から攻められる台湾を救いたいという想いがあったのだろう。
だが、これが如何に大変なことだったかは想像に難しくないでしょう。
通訳の吉村は戦時中、中国大陸で日本陸軍と現地中国人の間を取り持っていました。
二人はこの時に出会っていたのです。
吉村は根本と向き合う内に、彼の才覚と仁徳に惹かれ慕っていたとされ、台湾への密航に同行したのもこのためだろうとされます。
もちろん、密航して辿り着いた台湾では ”密航者” として投獄されてしまいます。
当然のことです。
だが、根本と交流のあった台湾国府軍上層部の耳に彼の投獄の情報が入るや否や、その処遇はガラリと変わり、厚遇されるようになり、後に蒋介石と再び面談することができたのです。
台湾でさえも知られていない隠ぺいされた「日本人」根本博
台湾で「根本博」の名前を知る人はおそらくほとんどいないだろう。
金門戦争については、その史実を知る人はいても、そこに日本人が関わっていたことは知らない。
だが、中には根本博の金門戦争への関与を否定する専門家もいる。
その理由は、もしも根本が金門戦争で軍事計画を発案し実行していたとするならば、それなりの記録が残っているはずなのに、それがないからだ。
確かに、台湾国防庁には根本の記録は一切残っていない。
それどころか、金門島に住む住民でさえも、日本人がいたということを記憶している人はいない。
では、記録が無いのにどうして根本が金門戦争に関与しているということが生まれたのでしょうか。
知られざる日本人となった理由
公式な記録として、日本人「根本博」の名前は残っていませんが、彼が確かに台湾にいた足跡は残っていました。
根本博、吉村是二はそれぞれ、名前を中国名の林保源、林良材と変え、当時の台湾国民軍・湯恩伯将軍の軍事顧問として活動していたのです。
もちろん、彼らが名乗った中国名さえも、公式記録や歴史資料館には記されていません。
1949年には金門島に1万人以上の共産党軍が中国大陸から上陸し、ここでは激戦が繰り広げられました。
そこで根本らは軍事顧問として、知恵を貸し様々な局面を乗り切ったという。
もしも、ここで共産党軍からの進撃に耐え切れなかったとしたら、今の台湾は無かったかもしれません。
この根本らの業績には専門家の中で評価が高まっているのですが、彼の存在が知られていないのは理由がありました。
それは、彼の存在を知るのは軍の上層部のみであり、それ以外の者が根本らとの接触すら許されなかったからです。
根本らの業績を史実として記録に残さなかったのは、根本が蒋介石への恩を返すという意思で密航したその行動を重んじるためにも、彼の存在を周囲に明るみにしてはいけないと蒋介石自身が気づいていたからかもしれません。
やがて、この金門島の戦いから60年後。
台湾当局は長年否定し続けていた根本の存在を公式に認めました。
金門島の戦いはこれまで、あまり重要視されてきませんでしたが、中国史・台湾史においては大きな意味をもつ戦いであったことは間違いありません。
また、その最前線で日本人が関わっていたということもまた、台湾と日本の深い繋がりをかんじます。
これからも、日本と台湾が深い縁を結び続けることを願いたいと思う。
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