台湾人は日本、日本人が大好きだと言う人が多いらしい。
その理由の多くは第二次世界大戦中に台湾が一時的に日本の統治下にあったことに由来すると考える人は多いようです。
2011年に日本を襲った未曾有の大震災である東日本大震災に200億円もの義捐金を送ってくれたのも台湾です。
しかも、その義援金の9割が台湾の一般人からの寄付金でした。
それだけ、台湾の人たちは日本を愛してくれているのです。
1895年に日清戦争に勝利した日本は台湾の統治を始めます。
この日本統治の時代に、台湾は経済的・産業的な発展を遂げたという史実が日本への愛着を生んでいるのかもしれません。
特にその時に台湾へ大きな貢献と業績を残した八田与一(はった よいち)(旧字体では八田與一と書く)は台湾では有名な日本人の一人である。
なんたってお札の顔にもなってるし(笑)
(中身はただのアメです。。。。)
冗談はさておき、台湾の小中学校の教科書にも彼の業績は「郷土を救ってくれた人」として掲載されているのは事実です。
そんな彼の業績と台湾の観光地について紹介しましょう。
八田与一が赴任した当時の台湾
八田与一
明治19年(1886年)に日本の石川県生まれ。
明治43年(1910年)、東京帝国大学工学部土木科を卒業したあと、土木・利水技師として仕事に打ち込める場所として台湾を選び、台湾総督府へと就職する。
台湾は明治28年(1895年)に日本が日清戦争で戦勝をあげたことから、清国(当時の中国)から台湾及び澎湖列島を日本に割譲されることになった。
それから第二次世界大戦で日本が敗戦するまでの50年間、台湾は日本の統治下におかれ、八田は台湾の高雄や台南、嘉義で上下水道の治水整備を担当することになる。
日本政府は当時の国内の食料不足を補うために、台湾で農業強化政策をとることで日本への農産物供給を計画したのです。
ところが、当時の台湾はまだまだインフラ整備が進んでいない状況にあり、飲用・工業用・灌漑(かんがい)用の水の利用が十分でなかった。
そのため、水利技術者である八田の水利事業への貢献が台湾では大きく注目されるようになったのです。
八田与一を有名にした水利事業計画「烏山頭ダム建設」
台湾南西部には嘉南平原(かなんへいげん)と呼ばれる大農業地帯がある。
台南は本ブログの共同ライターでもあり、弊社のパートナーでもあるリンちゃんの故郷です。
台南や高雄は古き良き台湾の街並みが残る地域も多いですが、人口は70万人を超える都会的なエリアも周知されています。
観光で訪れる人たちは、そういった都会に集まるのかもしれませんが、周辺には多くの町工場があり、私たちは日頃の金属部品加工でお世話になることも多い。
一方、郊外に行くと緑豊かな田園が広がる地域を目にすることができます。
今では、米や穀物の他、台湾の他の地域では見ることがほとんどないサトウキビ畑もあり、肥沃な大地が広がるようにしか見えない。
しかし、日本統治時代の頃は現在とは様子が全く異なり、かつては不毛の地だとされていた。その理由の1つが気候。
嘉南平原の一帯は冬は乾燥し雨が少ないし、夏は大雨のために川が氾濫しいくら農作物を育てても流されてしまい、農民にとっては貧困を脱出する術がなかったのです。
また、か細い河川からだけでは、灌漑用水のみならず飲用水の確保さえもままならない状況でした。
そんな時に、台湾総督府で働く八田は台南・嘉義を視察調査した後、不毛地帯であるこの嘉南平原を灌漑設備の充足によって大穀倉地帯に生まれ変わらせ、この地に住む人たちを救おうとする計画を提案したのでした。
その利水計画を嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼びます。
とりわけ、八田を一躍台湾で有名にしたのは、嘉南大圳の計画の中の1つであるダム建設による貯水であり、台南・嘉義を救うための水利事業計画「烏山頭(うさんとう)ダム建設」です。
不安視された八田の烏山頭ダム建設計画
この烏山頭ダムの建設は1920年に着工し、10年後の1930年に完成しています。
ただ、この烏山頭ダムの建設については、最初から順風満帆に進んだわけではありません。
まず先立って、八田は当時のダム建設の先進国であるアメリカに渡り、見聞を得つつどのような工法でダムを建設するのが良いかについて考えたようです。
彼はダム建設工法に持論を持っており、それが特殊工法(セミ・ハイドロリック・フィル工法)でした。
水に流された土砂は重い物から順番に堆積するという原理を利用した工法です。
ところが当時、八田は34歳という若さであり、経験量の乏しさや、彼の提案したセミ・ハイドロリック・フィル工法によるダム建設にはアメリカの土木学会などからも懸念の声があったのです。
また、灌漑を行う嘉南平原の一帯は非常に範囲が広く、建設しなければならないため八田が提案したダムも大規模なものでした。
これには、当時の日本の技術で達成できるかどうかも未知数ですし、予算さえもないと一蹴され建設するダムの規模縮小を強要されたのです。
計算されたダム建設予算は当時の台湾総督府の予算の実に1/3にもなっていました。
それでも、彼はダムを造る意味は「一時しのぎのダムではなく、平野に住む農民たち全体を潤すものでなければならない」と強く主張を続けたのです。
その3年後、ようやく八田は費用の半分は現地農民たちが担うという条件付きでしたが、ダム建設許可を得ることができました。
1920年のことです。
この費用の半分を現地農民が担うということには、当然、皆大反発します。
これには、後世の子供たちも安心して暮らせる平野を作り上げることを粘り強く説得し続けることになります。
そして、日本人・台湾人合わせて2000人を要したダム建設が始まります。
ダム建設は非常に過酷な労働であり、それに携わる人たちのためにも、八田は労働者の家族も一緒に住める宿舎の建設を政府に進言。
そして、工事現場の近くに仮設住宅のようなものではなく、公共施設や娯楽施設もある小さな町を建設しました。
過酷な環境を少しでも緩和することに八田は務めたのです。
そこに、台湾に人たちも「家族の絆」を築いていきました。
ダム建設を襲った日本で起こった関東大震災
台湾人との絆もでき、工事も順調に進むかと思われた1923(大正12年)のこと。
日本の関東地方を大震災が襲いました。
関東大震災です。
日本政府は八田が進めるダム建設どころではくなったのです。
ここに来て、ダム建設の費用を大幅にカットされる事態に陥りました。
この時、台湾総督府からは現地で働く労働者の多くをクビにして人件費を削減することを指示されたのです。
迷った八田が取った行動は、日本人の多くをクビにすることでした。
現地の台湾人はクビにしなかったのです。
その理由は、完成するダムを使用する者がダムを造るべきだということ。
将来、このダムによって潤った平野で農作物を作るのは台湾人であるからです。
こうして、再び台湾人によるダム建設が進められたのです。
途中、ダム建設では大規模な事故の発生により、多くの台湾人が命を落としています。
これには、八田も心を痛めたがダム建設に関わる台湾人からは、ダム建設への希望を伝えられ、悩みながらも烏山頭ダムを完成させます。
このように、予算を組むこと、現地を測量すること、工事を指揮することも全て彼が担いました。
後に、八田の業績から烏山頭ダムは「八田ダム」とも呼ばれるようになりました。
当時は東洋一の大きさを誇るものでした。
ダム建設に隠れた八田與一の大きな業績
日本よりも、功績を残した台湾での知名度の方が高い八田与一ですが、彼の業績は烏山頭ダムの建設だけではありません。
実は、嘉南平原における農作物の作り方にも大きな提案をしたのです。
それは「三年輪作法」というもので、台南で定着させることによって、従来の3倍もの面積の農作地を増やすことに成功したのです。
輪作とは、同じ農地で別の性質(種類)の作物を数年に1回のサイクルで育てることを指します。
輪作をすることで、土壌に含まれる栄養素の偏りをなくすことで収穫できる作物の品質が一定に保たれ、害虫にも強いメリットがあります。
通常、輪作は5年や長い場合は10年サイクルにもなりますが、八田が提案した「三年輪作法」では、1年目に米、2年目にサトウキビ、3年目は雑穀類(豆類、イモ類など)を栽培します。
この方法が3年という短いサイクルで回るのは、嘉南平原の水不足を補足するための輪作であったからです。
要するに、米は水が沢山必要ですが、サトウキビでは米ほど水は不要。
さらに、雑穀類になるともっと水は不要になるのです。
こうした ”水” に着眼した輪作が広まることと、烏山頭ダムの建設を伴って不毛と呼ばれた一帯は穀倉地帯へと変化を遂げるのでした。
八田与一の銅像がひっそり佇む鳥山頭ダム
烏山頭ダムの建設後、八田与一は1942年(昭和17年)の太平洋戦争真っ只中に、陸軍の命によってフィリピンの綿作の灌漑調査のために海に出たのですが、途中、アメリカ海軍の雷撃によって殉職してしまいました。
享年56歳。
実は、現在の烏山頭ダムには八田與一の銅像と墓がある。
(Wikipedia より引用)
威風堂々とした佇まいではなく、なんともユニークな銅像ではあるが、これも八田本人の意向を汲んだ結果作られたものであるとされます。
この銅像が作られたのは1931年ですが、太平洋戦争末期の日本では金属類を差し出さないといけない金属供出令が発令され、この銅像も一度は徴収されてしまいました。
ところが、奇跡的にもこの銅像は溶解されずに、そのまま隆田駅(りゅうでんえき)の倉庫に残っていたのを嘉南の人が見つけ、烏山頭ダムに再び持ち帰り倉庫にしまっておいたのでした。
終戦時、日本は敗戦国として多くの国々から制裁を受けている最中でしたので、八田与一の銅像を人目に触れさせることができなかった世情もあり、再び陽の目を見ることができたのは1981年のことです。
2011年には、八田与一記念公園が完成しています。
そこには、彼がダム建設時に暮らした木造の家屋や工事に携わった方々が生活をした宿舎などが復元されている。
家屋の復元のために使用された木材は「台湾ヒノキ」です。
台湾ヒノキは現在、台湾全土で無断伐採が禁止されている樹木であり貴重なのだが、高級木材として寺社仏閣の建設で使われることが多い。
そんな台湾ヒノキを使用した面白い伝統的なお土産もある。
それは、福を招く台湾ヒノキの筆です。
筆といっても、本物の筆ではなく、筆の形に削ったお守りみたいなものです。
値段は高いものから、キーホルダーサイズのお手頃価格のものまである。
台湾ならどこでも売っているというわけではないが、私は台南で現地の仕事仲間から頂きました。
現在も烏山頭ダム周辺は自然豊かな地として残っています。
アクセスは車になりますが、台湾にてかつての日本人の業績を自然の風を受けながら思い描くのも一興だと思います。
烏山頭ダム周辺の口コミなどを知りたい場合は、TripAdvisor (トリップアドバイザー)で「烏山頭水庫」と入力検索してみるとよい。
八田與一が台湾で語り継がれる業績を残せた理由
八田の業績は不毛と呼ばれた一帯をダムの建設と三年輪作の農法の提案によって、大きく変化させ、経済を潤したことにあります。
歴史的な成功事例として八田の業績が残るのも、彼が遂行したことに結果が伴ったからでもあります。
もしも、烏山頭ダムの建設が失敗に終わり、莫大な費用だけが費やされる愚策だった場合。
今の台南、高雄、嘉義一帯は現在とは全く違う風景が出来上がっていたかもしれません。
しかし、何故37歳という若さでこれほどまでの業績を残すことができたのか。
その理由は彼を取り巻く環境と、彼自身の信念によるところが大きく、学ぶところは多い。
”信頼” を得ずして仕事は成功しない
彼が計画を立て、実際に建設においても指揮を執り、作られた烏山頭ダムには10年間で数千億円規模の費用が投資されている。
もちろん、これだけの工事費用の予算を組んでもらうためには孤軍奮闘では実現しません。
そこには、八田を信頼して工事を任せると決めた上司がいたのです。
仕事を任せてもらうためにはこの ”信頼” というものが、すごく重要になってきます。
どんなに素晴らしい技術や計画さえも、それを発信する人が信用できないと霞んでしまうものです。
これは、私たちが今、台湾でのものづくりをより多くの日本のお客様に知ってもらうために必要なことに通じるものがある。
どんなに高度な技術を振りかざしたところで、その技術を提供する人が何者かわからないと仕事は成功しません。
相手のことを想う気持ちが人を動かす
彼が、一大事業を成功させたその過程では、八田の「台湾人、日本人を分け隔てなくお互いに協力し合って同じ方向を向かせる」という姿勢があったことが大きいと残されています。
おそらく、当時の日本は未来もずっと台湾を日本の国として統治していくつもりだったに違いありません。
だからこそ、日本は台湾を支配し統治下に置いていましたが、八田のように台湾を日本の国として開拓・発展させるために尽力した先人がいたのだと思います。
ただ、八田の業績においては「嘉南平原に住む農民(庶民)の暮らしを良くする」という想いが常に先頭にあったことが大きい。
利水工事が成功すれば、農作物の収穫も増えるので日本の国としても経済が潤う。
だが、視点を変えれば、利水工事で最優先で恩恵を受けるべきは「日本の国」ではなく「そこに住む人」であるという、この強い想いが現地の台湾人にも伝わったからこそ、みんなで頑張ることができたのです。
経験を積み、時には決断をする勇気を持てる人が成功する
八田與一が建設した烏山頭ダムは当時世界一を誇る大規模なものでした。
それだけの工事を計画し実行するというのは、相当な心労があったはずで、その心中は銅像からも察することができるほどです。
何といっても、動かすお金が違いますし「失敗しました」では済まされないことです。
この工事の先には嘉南平原に住む多くの人の生活がかかっているのですから。
このように大事な局面の矢面に立たされた時、ただ、決断力があればよいというものではない。
正しい判断をしなければならない。
正しい判断を導くために必要なことは、経験と学習です。
彼がダムの建設の前に、先進国であるアメリカに渡航して熱心に研究したことが、結果的に最適な工法をあみだしたわけです。
全ての知識は歴史(過去)を学ぶことから始まります。
過去を知らずして、新しいものは生まれないのです。
成功する人は、常に過去を学習していると思う。
八田與一の業績に思うこと
現在、台湾が日本に対して友好的に思ってくれているのも、彼らの業績があったからです。
決して、台湾に限定したことではありませんが、こうした歴史的背景が人情に影響を与える部分はあり、歴史教育を受ける内容によって、あの国は嫌いだとか、逆にあの国が好きという感情さえも生んでしまう。
しかし、歴史はあくまでも歴史であって、過去の1ページに過ぎません。
過去に起きた史実に学ぶことは学ばなければなりませんが、私情として今を生きる私たちが負の感情を引き継ぐ意味はないのでは・・・と個人的に思うのです。
八田与一のように国ではなく、そこに住む ”人” の暮らしに貢献できる人は素晴らしい。
どんな国の人でも、最も大事なことは幸せに暮らせることです。
そのためにも、これからの未来で必要なことは、いかに国境を越えて手を繋げるかということにあるはず。
私たちは今、台湾と日本を ”ものづくり” という分野で手を繋いでいます。
金属部品加工のその先に生まれる幸せをつくるために。
八田与一のように名前を残せるわけでもありませんが、彼の業績を見てこれからも頑張ろうと思うのでした。
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