台湾や中国では1月27日に旧正月(春節)を迎えてお祝いムード一色かと思いきや、台湾総統である蔡英文 氏の祝辞が中国から批判殺到を受けました。
その理由は、蔡英文 氏が英語と日本語でツイッターに新年の挨拶の書き込みをしたことによるらしい。
日本語では「日本の皆様、今年は実のある素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り致します」と書かれたそうだが、これに対して中国からは台湾が日本に ”ごますり” をしている!!という見解を示したことに始まった論争です。
うーむ。
ここに政治的な地位がどこにあるのかを問題とする歴史的背景がにじみ出ているのがお分かり頂けるだろう。
そもそも、現在、世界中で台湾を中華民国として中国(中華人民共和国)とは別の「1つの国」だと認めた上で外交関係を築いている国は少数派です。
日本を含めアメリカも欧米諸国も台湾を「国」だとは認めていないのです。
その理由は中国の歴史問題が絡んでいるから。
でも、台湾の多くの人たちは自分達は中国人ではなく台湾人だという意識が強いという。
一体、なんでこんな状態になったのか知っていますか?
その歴史的背景の流れをサラリとご紹介します。
『清』の滅亡から政治的混乱期まで
清が滅亡し、現在の中国(中華人民共和国)が建国されるまでには細かい複雑ないきさつがあります。
細かく捉えすぎるとキリがないので、ササーっと流れをご紹介し、何故、台湾と中国の問題が残っているのかを考えたいと思います。
中国大陸で清朝の滅亡が起こった後、新生中華民国の臨時大総統に就任したのが袁世凱(えんせいがい)という人物。
彼の思想は「中央の元首が強権を振るうべき!」というものでした。
独裁政権に近いもの、いわゆるそれまでの歴史の流れの通り「皇帝が君臨する帝政」が一番良いのだという考えです。
一方で、彼の思想に真っ向から反発する人物もいました。
それが、宋教仁(そうきょうじん)であり彼は革命家でもあります。
宋教仁の考えは大総統の権限を大幅に削減し、議院内閣制を進めることが必要だ!というもの。
清が滅亡した後の新生中華民国はまだまだ混沌とし、まとまりがなかったためここから中国大陸での革命が起こっていきます。
絶大な権限を持つ元首の確立か、議院内閣制か。
そのどちらが良いのかを最初に選挙の中で決着をつけることになったのです。
そして、勝ち取ったのは、宋教仁でした。
選挙では当時の中国大陸では斬新だった議院内閣制は国民の心を掴んだというわけですね。
しぶしぶ、大総統であった袁世凱は宋教仁に懐柔しながら政策を進めていましたが、宋教仁を警戒する心はますます強くなり、ついに数ヵ月後、刺客を放ち宋教仁を暗殺してしまいます。
敵対する宋教仁がいなくなったことで袁世凱は自分の権限を強化していくのでした。
袁世凱の政策に対する反乱軍の蜂起
敵対する宋教仁が亡くなり、袁世凱は外国から借金をして国内のインフラ整備を進めます。
とにかく当時は世界的にも時代遅れだとされた清ですから、新生中華帝国ではとにかく近代化をはかり、世界に追いつくことが最優先だと考えたのでしょう。
しかし、近代化を進めるための資本を外国に求めた行動に対して、中国南方地域からは反対の声が・・・
これがやがて、袁世凱の政策に対する反乱分子となり大きくなり、ついに反乱軍として蜂起させるまでになったのです。
この反乱を指導した人の中には有名な革命家である孫文(そんぶん)も含まれます。
先ほど出てきた宋教仁は袁世凱に対して「法によって対抗しよう!」としたのに対して、孫文は「軍事力で対決するぞ!」という考えの違いがあったようです。
さらに、宋教仁は都市革命、孫文は辺境根拠地革命という思想の違いで対立していました。
また、孫文は議院内閣制ではなく、袁世凱と同じように強権を持った大総統制を進める思想を持っていました。
そういった、軍事力を持って対抗する革命を起こそうとしたのですが、残念ながら袁世凱の軍事力に敵わず反乱軍は鎮圧されてしまいます。
その後、孫文は日本に亡命します。
袁世凱による中華帝国の宣言と崩壊
反乱軍を無事に鎮圧した袁世凱ですが、その後強力な立憲君主制をつくるために自身が皇帝となり、中華帝国を宣言しました。
ところが、この頃に中国大陸では先ほどの大規模な反乱軍の蜂起があったように、方々で反乱因子がくすぶっており袁世凱の掲げる帝政への反発は非常に大きいものでした。
その様子に危機感を覚えた袁世凱は1915年12月~1916年3月というわずか83日間の短い期間で帝政の取り消しを声明し退位せざるをえなくなったのです。
この袁世凱の帝政失敗の後、中国大陸は政治的な混乱期を迎えます。
中国共産党と中国国民党の対立
袁世凱が皇帝から退位することになった以降、彼の権威は失墜し続け、失意のうちに亡くなります。
その後は、彼の後継者たちによる政府(北京政府)の維持は続いたものの、革命分子が徐々に大きくなり10年あまりをかけて北京政府は討伐されるようになります。
その北京政府討伐に共闘したのが、2つの政党です。
中国共産党と中国国民党
この2つの政党は、最初は北京政府の討伐に協力しあっていましたが、やがて思想の違いから闘うことになります。
中国国民党は孫文が日本に亡命中に結成された中華革命党が前身であり、1921年に正式に中国で中国国民党として結成され、後に台湾を地盤にした政党として現在に残ります。
民族主義(ナショナリズム)を掲げ、敵対する共産党に対しては反共産主義の姿勢をとっており、孫文の亡き後に意思を継いだ蒋介石(蒋介石)が革命軍の総司令官として実権を握っていました。
中国共産党は同じく1921年に毛沢東(もうたくとう)らによって結成された共産主義の実現を理想として掲げる政党であり、ご存知の通り、現在の中国(中華人民共和国)の政権政党ですね。
指導思想としてはマルクス主義であり、今なお共産党の党員は宗教の信仰も許されていません。
その後、北京政府の討伐と同時に1947年、蒋介石率いる中国国民党は新たに中国大陸を統治する中華民国政府を樹立しました。
後に台湾政府となります。
1940年代当時は第二次世界大戦の真っ只中で、対立する中国共産党とは共通の敵である日本との戦いのために共闘する部分がありましたが、終戦を迎え、日本が敗戦国となった頃から再び国民党と共産党の間で小競り合いが始まります。
やがて国共内戦と呼ばれる争いに発展するようになり、毛沢東率いる中国共産党の勢力が強くなっていきます。
そして、ついに蒋介石ら中国国民党は敗戦することになり、1949年には中国共産党が中国大陸を掌握、中華人民共和国を樹立しました。
これが、現在の中国(中華人民共和国)政府です。
敗戦した蒋介石を中心とした中華民国政府は中国大陸を離れ、台湾に政府の拠点を移したことが台湾政府の始まりなのです。
そして、現在に至り、今なお「一つの中国」という政治上の概念が取りざたされるようになりました。
それでも、ものづくりの世界では手を繋ぐ
今でも日本政府は台湾を一つの独立国としては認めていませんが、私達がものづくりの世界で日本が台湾と手を繋ぐことに何ら変わりはありません。
もちろん、中国とも同じです。
歴史的な背景の中で、影響を受けること、受けないことは様々ありますがみんな仲良く頑張れる世界があることを私は願い信じます。
おしまい。
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