こんにちは!
台湾izm 管理人の平野です。
普段は台湾の協力会社に部品加工をしてもらったりしてお仕事をしているのですが、台湾のことをもっと多くの人に知ってもらえればという思いもあります。
なので、このブログでは台湾の観光スポットなどについても、色々と発信していけたらと思うのですが、台湾観光って台北、台中が多いと思います。
でも、台南は台湾の古都と呼ばれるほど、古い建物が数多く残っていたりして見どころが満載なんですよ。
もちろん、台湾全島にはいくつもの歴史スポットはあるが、今回は台南にある赤崁楼(せきかんろう)という古跡を紹介しましょう。
日本人との深いつながりもある建物ですし、街のど真ん中にあるのでアクセスに困ることはないと思います。
台湾の台南を旅行するときには、是非とも行き先候補の1つとしてお考え頂ければ!
赤崁楼(せきかんろう)の所在地
住所:台南市中西区民族路二段212号
拝観時間:8:30~21:30
入場料:大人50元 子供25元
チケットはこんな感じです(2016年現在)
上のグーグルマップを拡大していってもらうと分かりますけれど、割と海に近い町のど真ん中にあります。
アクセスの良さから、大手旅行代理店でも赤崁楼(せきかんろう)の見学ツアーが用意されているはずです。
パッと見た感じは「何だここ?」と思うかもしれませんが、歴史的背景を知れば面白さアップ間違いなしです。
歴史好きな人は知っているかもしれませんが、そんなに歴史の事は詳しくないし興味もないんだよねぇという人でも、是非、ここで簡単に説明するので読んでみてね。
赤崁楼がここにあるのも、ちゃんと意味があるのです。
赤崁楼の創建と時代背景を簡単に説明するよ!
赤崁楼が創建されたのは明永暦7年(1653年)です。
今から約400年ほど前ですね。
日本は長い戦国時代がおわり、徳川幕府による江戸時代が始まった頃です。
当時、広い範囲で貿易を支配するために、オランダ東インド会社がヨーロッパからアジアに進出してきました。
ヨーロッパの国々は世界中に植民地を作っていた時代ですね。
『よ~し、アジアに進出や!まずはマカオ(中国(当時:明)のポルトガル植民地)を目指すか!』
ズンズン♪とオランダ東インド会社がマカオに意気揚々と行くのですが、マカオは1999年に中国に返還されるまでは、ポルトガルの植民地だったのです。
なので、オランダ人がマカオに行くと。
現地を統治していた当時のポルトガル人たちは・・・
『なんやお前!よそ者が来んなや!帰れ帰れ!』
『か~え~れ! か~え~れ!』
『・・・・・(うぅぅぅ。ヤバイ)』
『仕方ないな。ここは大人しく違う拠点を探すか』
と、オランダ東インド会社が次に目をつけたのが台湾だったのです。
でも、まだこの時は台湾本島ではなく、澎湖(ほうこ)という台湾本島の西に位置する小さな島に上陸しました。
当時の澎湖諸島周辺は当時の中国(明朝)の監視の目が緩んでおり、中国の海賊(倭寇)が騒乱している時代だったのです。
明朝も分かっておりながらも、野放しにしていた時代です。
『おっ!この辺は何かすいてるなぁ。立地的にもええとこやし、ここを拠点に貿易やったろ!』
この時代背景もあり、澎湖諸島には特に中心となる抵抗勢力もなく、オランダ東インド会社はすんなりと上陸できたのです。
そして、ここで軍隊半分、商売半分の貿易活動を行っていたのですが・・・
この様子を見た当時の中国(明朝)は外国人に領土を奪われる!!と焦ったのです。
『外国人めが!余計な事をしてくれますがな!』
『排除や排除!』
ということで、明朝は澎湖諸島に居座るオランダ人たちに「出て行け」と勧告し始めたのです。
『いやいや!そんな、あんたらこの辺りを野放しにして適当やったやん!』
『そっちこそ、勝手なこと言わんといてーや!』
こうしてオランダと明朝との小競り合いが始まり、ようやく終結する時にはオランダが澎湖諸島を明朝に返還することに引き換え、明朝はオランダに台湾の領有権を認める形になったのです。
こうして、オランダは澎湖諸島を離れ台湾へと向かったのです。
いやぁ、台湾本島の領有権を認める方が損害大きいと思うんですけどね。
『ふ~。なんとかオランダを追い出したったで♪』
『ほんまに、もう!明の勝手な言い分には困るわ。仕方ないけど台湾でまた頑張ろか』
こうして、オランダが最初に入ったのは台湾の台南。
そして、貿易商業の拠点として新たに築いたのが今の台南の安平というところにある安平古堡(あんぴん こほう)。
別名、熱蘭遮城(ゼーランディア城)です。
最初はここが台湾統治の中心となりました。
赤崁楼に非常に近いところに位置します。
『ガハハハハ!台湾の統治権を公式にもらったし、ガンガンやったるで~』
こんな感じでオランダ人たちは、台湾の漢民族(中国からの移民)や平埔族(へいほぞく:台湾の原住民)に厳しく統治を始めたのでした。
元々、台湾には平埔族が全土に住んでいたのですが、オランダ統治が始まってから漢民族を入れるようになり、現在の民族構成になっていったと言われています。
ただ、当時のオランダ統治は台湾人にとっては本当に厳しいもので、1650年代になると主要産業であったショ糖(砂糖)産業が低迷し、さらにオランダによる重税を課された台湾の漢民族たちには不満がどんどん溜まっていったのです。
『お前ら!ちゃんと働けよ!!わかってるか?』
『この台湾の政府はオランダや!』
こんな横暴がいつまでも続くはずはありません。
そして、1652年に事件が起こったのです。
郭懷一事件
いわゆる暴動、一揆、クーデターみたいなものですね。
台湾の開墾の指導者であり、漢民族でもある郭懐一(かく かいいち)が中心となって起こした反乱です。
しかし、残念ながらこの反乱は失敗に終わり、オランダによって鎮圧されてしまいます。
『フゥゥゥ! ヤバイとこやったで。反乱なんか起こしよってからに!』
『このまま、また反乱起こされたらたまらんな。。。』
『よーし、政府の軍事防衛拠点となる建物を建築しとこか!』
ということで、1653年に創建されたのが赤崁楼(せきかんろう)ということです。
別名、普羅民遮城(プロヴィンティア城)。
やっと出てきました。
長かったぁ(笑)
最初に統治拠点としていた安平古堡も、軍事防衛目的で創った赤崁楼も同じようなところに位置します。
その理由は、当時のこの辺りは遠浅の海だったからです。
要するに、海への入り口だったんですね。
時代によって変わる赤崁楼の使われ方色々
最初はオランダによって軍事要塞の役目を果たした赤崁楼ですが、1660年代にはお隣の中国では明朝が滅亡し、新たに清王朝が誕生していました。
しかし、まだ滅んだはずの明の亡命勢力が残っている状態で、明を擁護し抵抗運動を続けて活動していた有名な軍人がいました。
それが、鄭 成功(てい せいこう)です。
現在では台湾・中国の民族的英雄の1人。
『私が鄭 成功だ』
赤崁楼と鄭 成功は非常に密接な関係があります。
清を逃れた鄭 成功によるオランダへの攻撃
滅んだ明朝を助けようとしていた鄭 成功ですが、新たな国家である清朝には敵いませんでした。
中国本土を追われた鄭 成功は、勢力を立て直すべく台湾を本拠地にしようと統治していたオランダを攻めることにしたのです。
『外国人め!出て行け。攻めたる!』
当時、台湾を占拠していたのは確かにオランダですが、オランダの統治は反乱が起こるほどに支持されていなかった背景もあってか、鄭 成功による攻撃によって1661年に降伏することになります。
ここに、38年間続いたオランダによる台湾統治の時代が終わります。
鄭 成功が新たに台湾に入ってからは、新台湾政府の拠点(承天府)を赤崁楼に決めたのでした。
オランダが軍事拠点としていたこともあり、当時は堅牢な建物である赤崁楼はうってつけだったんですね。
明朝の復活を願っていた鄭 成功ですが、その後、夢は叶わぬまま死没します。
結局、明朝は復活せず清朝もやがて滅亡します。
鄭 成功の死後、承天府が廃止されると赤崁楼を火薬貯蔵庫として使用することもあったようです。
時代は流れて日本統治の時代の赤崁楼
時は流れ、第二次世界大戦のころになると台湾は日本の統治下におかれます。
この頃の赤崁楼は名称を「陸軍衛戍医院(りくぐんえいじゅいいん)」と変更され、病院として利用されたり、医学生の寮としても活用されました。
このように、時代の流れによって活用のされ方も、利用する政府がオランダ、中国、日本と変わっていったことから、その建物の様子は西洋風にも中国風にも見える面白い建物であると言えます。
現在は歴史博物館として、また周辺の広場は憩いの場として活用されていて、1983年には国定古跡に指定されています。
もしも、台南に行くならじっくりと時間の流れを感じながら空気を味わうとよいだろう。
赤崁楼(せきかんろう)の周辺には寺院があったり、ちょっとしたお店が立ち並んでいます。
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